小説 多田先生半生記
24.海外研修
多田一家の面々は無事に卒業を果たして、それぞれ各地に飛び立っていったが、博多に残っている者もいて相変わらず我が家は賑わいでいる。ドイツ語教員のポストもこの4月に埋まり、又4人態勢となった。春には中川がドイツに出掛けて1か月ほどの研修をしてきた。大学生協理事を兼務している教授の計らいで生協が企画した卒業旅行の添乗員の名目で旅費はそちらで賄ってもらったようだ。ドイツに行ったことのない私が羨ましがっていたら、大学の方で若手に海外研修を積ませてやろうという話が持ち上がった。40日間だが、その研修の費用の一部を負担してくれるという。私は何とかお金を工面してその制度に乗ることにした。ドイツ外務省の外郭団体の語学学校が外国人の為に開く研修は8週間に亘る。私は日数を誤魔化して7月に入ってすぐさま出かけた。学生の頃には通訳のアルバイトをしたこともあったし、六本松のドイツ人教師とは定期的に開かれる研究会で顔を会わせていたし、お互いに日本語とドイツ語を教え合おうということで、週に一度はそのドイツ人と会話をしていたので初めての渡独ではあったが、さしたる不安はなかった。
羽田空港の国際線では東京の会社に就職した大籠が私を待ち受けていた。
「先生、保険に入らんでよかですか?」
「そんなもの要らん」
「でも、入っとった方が安心して死ねますけん、入らんですか?」まるで保険の外交員のような口振りだ。
私は応諾した。自動販売機で手続きをして、控えは大籠に預けた。大籠は盛んに時計を見ては辺りを見回している。東京に就職した多田一家の卒業生がまだ来ていなかったのだ。語学学校の申し込みはドイツの書籍を扱っている書店で行った。所定の場所に行くと書店の女性ドイツ人オーナーがいて、10数名の研修生たちを待ち受けていた。どの顔ぶれもフランクフルトまでは一緒である。チェックインの時間となって私は大籠に別れを告げて搭乗待合室に入った。やがて出発間際になってゲートに入ろうとする矢先に奥稲荷たちが遣って来た。
「教官、ドイツのご住所はもうお分かりですか?」奥稲荷が大きな声を出して尋ねた。私はメモ帳に住所を書き込んでその紙片を渡した。
「電話番号もわかりますか?」
「電話なんてせんでいい」奥稲荷も2年に亘ってドイツ語を学んだ口だが、学校に電話を寄越したところで、奥稲荷のドイツ語ではさっさと受話器を置かれてしまうのが関の山だろう。
「ご住所が判れば調べることができますので、分かり次第ご連絡申し上げます」
適当に相槌をうって私は皆に別れを告げた。背中越しに「多田先生、万歳」という声が上がって誰もが振り向いた。
搭乗する飛行機はドイツのルフトハンザ航空である。機内では英語、ドイツ語が入り乱れている。郵便物は機内から出せば無料で配達して貰えるということを中川から聞いていた私は席に着くや、すぐさまスチュワーデスに「便箋と封筒、そして葉書きはあるか?」と聞いてみた。早速、持ってきてくれて、ゴニョゴニョと言っている。どうやら私のドイツ語を褒めてくれたようだ。「忙しいのに吾の為に便箋などをご持参くだされ有難う」と言おうとしたら、間髪を置かずに何やら早口で聞かれたのだが、頭の中は告げようとした感謝の言葉で一杯になっていて、聞き取れなかった。「今一度請う」と言ってみたら「ドイツに行ったのはいつの事だったのか?」との簡単な質問でだった。それで「初めてドイツに行くため大いに不安を感じている」と言おうとしている私を尻目に何やら言い残して戻ってしまった。離陸してベルト着用のサインが消えたのでスチュワーデスを呼んで、ウイスキーを持ってきてくれるよう頼むと、又ゴニョゴニと言っている。これもよく判らないので適当に返事をしておいたら、小さなウイスキーの瓶と氷の入ったグラスを持ってきてくれた。私は手持ちの千円札を差し出すと、スチュワーデスは何故か不機嫌な顔をして戻っていった。暫くしてにゅうっと手を伸ばして日本円で釣りを寄越した。こうした脈略から推し量るに、先ほどは「氷は必要であるか?」と「支払いは円にするのか、それともマルクで支払うか?」と聞かれたようだった。先が思いやられる。
途中、飛行機はアンカレッジに立ち寄った。ロビーでは沢山の日本人が立ち食いの饂飩を啜っている。今しがた日本を発ったばかりだというのに饂飩を啜るその神経が判らなかったが、よくよく思うに私とは違って、帰国の途に就いた人たちかも知れない。それならそれでよし。だが、あと数時間で日本に帰れるというのに、ここで饂飩を食べる必要もないようにも思える。
飛行機がドイツのフランクフルト空港に着陸したのは現地の朝方だった。ここで他の参加者たちとは別れて愈々一人で旅をしなくてはならない。中川から借りてきた海外旅行用の大きなスーツケースをゴロゴロと押してフランクフルト中央駅へと向かった。そこまでの電車の切符は書店のオーナー婦人が買ってくれて、事細かく私の行く先の手順を教えてくれた。ゆっくりと話してくれるのでこれは全て聞き取ることができた。中央駅のインフォメーションでこれから赴く駅名を告げて、どの汽車に乗るべきかを訪ねた。私が乗り込む列車の出発時刻まではまだ2時間ほどもある。大きなトランクを引き摺りながら町の中を歩くのも面倒だし、果たして時間内に戻れるかどうかの分別がつかない。プラットホームでトランクに腰を掛けてぼんやりと時間を過ごした。待ちくたびれた頃合いに列車がホームに入って来たので乗り込んだ。日本の寝台列車のような拵えで片側が通路になっていて、ガラスの扉越しにコンパートメントの中が見えるが、どこに坐ったら良いのものか検討がつかない。中川から予約席には坐ってはならないと教えられていたので注意してコンパートメントの表示を見たのだが、どれも予約席とあった。私の切符にも何やら数字が書いてある。切符を買う時に係りの者から何やら言われたのだったが、よく判らなかったので適当に「ハイ」と返事をしておいたので予約席になっているのかも知れない。車掌が来たので私の切符を見せて、蚊の鳴くようなか細い声で「吾はどこに坐るべきか教えを請う」と言うと、「関係ない。どこでもいいんだ」との返事。「されど表示板には『予約席』とある」と言うと、車掌はその下の部分を指差した。落ち着いて眺めて見るに、その下に「予約されていない」とあった。コンパートメントの扉を開けて中に入ると、窓際に一人の老婦人が座っていた。肩通りの挨拶をしてその向かい側に腰を下ろした。トランクは重くて棚に持ち上げられそうにもないので横に置いた。
「どこから来たのか?」老婦人が声を掛けてきた。
「日本である。吾は初めてドイツに来て大いに戸惑っている。この席は予約席かと思ったが、その下に予約されていない、とあった。実に分かりにくい」
「外国人にはそうかもしれない。気の毒である。何処へ行くのか?」
私はボーデン湖畔のラードルフツェルというその町の名前を告げた。中川が研修をしてきたオーストリア国境近くのパッサオに行きたかったのだが、すでに満杯となっていて、空いていたのはこのラードルフツェルの学校だけだった。
「あそこは小さな町ではあるが、とても良い所である」
「吾はそこの語学学校にてドイツ語の勉強をする」
「汝は既に十分にドイツ語を話す。職業は何であるのか?」
「言語学者である。大学ではドイツ語も教えている」
「そうであろう。汝のドイツ語は極めて正しい。それにもかかわらず何故に改めてドイツ語を勉強するのか?」
「いや、吾のドイツ語は今もって不十分である。きちんと学びたい」
「ドイツにいればすぐに吾らドイツ人の如く話すことが出来よう」
「既に述べた如く、吾は初めてドイツに来た。従ってドイツでの旅も初めての経験である」
「…」
同じ事を聞かされてうんざりしたのだろう。婦人は外に目を転じた。何か話をしなくてはならないと思って質問を組み立ててみた。
「一つ質問を許されるか?」
婦人は優しい顔を私に向けて軽く頷いた。
「ドイツの列車は何のアナウンスも無く静かでよいのだが、日本では次の駅名がアナウンスで告げられるので安心していられる。ドイツでは人は如何にして降りるべき駅を知ることが出来るのか?」
「景色を見ていればよい」
「吾はそもそもドイツに初めて来たので景色に基づく判断は不可能である」
老婦人は尤もだと言って、窓際に置いてある一枚の紙切れを寄越して、あれこれ喋っていた。殆ど聞き取れなかったが、紙切れにはこの列車の停車駅と時刻が印刷されている。「この時刻表を見て自分の降りるべき駅と時計をみれば良い」と教えてくれていたようだった。それ以上話題もないので私たちはひたすら外の景色を眺めていた。程無く、その老夫人は降りて行って私はホットした。暫くしてドイツ時間に合わせた時計を睨み、予定の時刻の数分前に出口へと向かい、駅に着いたところで列車を降りた。ちょうどそこに居合わせた駅員に私の切符を見せて「ここで良いのか?」と聞いたら、「次の駅だ」と言って私の背中を押して、次いで荷物を載せてくれた。そういえば途中で珍しくアナウンスがあったが、どうやら列車が遅れていることを報せたようだった。悉く後になってドイツ語の筋道が判るのだから困ったものである。
ラードルフツゥルに着いて駅前のホテルに部屋を頼んだ。語学学校では下宿を手配してくれることになっているが、それは明後日の面接が済んでからのことである。取り敢えずホテルに二泊することにした。駅の裏手にはボーデン湖が広がっている。夕暮時だというのにお日様が照り付けているのが何とも不思議に思われた。腹が減ってきたのでレストランに入ってビールを頼んだ。ボーイはグラスと小さなビール瓶を持ってきて、グラスに半分ほど注いでくれた。温くて、ちっとも旨くない。ソーセージと玉ねぎのサラダ、黒パン一枚で夕食とした。飛行機の中では三回にわたって食事が供された。そして今朝になってパン、ジュース、チーズそれにヨーグルトが出たので、それは汽車の中で食べてきた。どれもこれも不味い。もう一本、別のビールを頼んだが、矢張り不味い。大籠が「先生、何かあった時には酒呑めばヨカけんね!」と言っていたが、ヨカことは何もない。
明けて日曜日、レストラン以外の店は全て閉まっている。何もすることもないのでボーデン湖を巡る船に乗ってスイスのシャッフハウゼンに行くことにした。途中で一度乗り換えなくてはならない。その積りで二度目の船に乗ったら目的地に着かないうちに乗客は全員降りて行く。慌てて係りの者に聞くと「別の船に乗ることになっている」との返事で慌てた。同じ乗客の顔ぶれにくっついて行って、無事に該当の船に乗り込んだ。デッキで湖面を眺めていたら、初老の男に話しかけられた。英語だった。「英語は不得意である」と答えたらフランス語に切り替えたが、これは尚の事判らない。仕方ないので英語で「どこの国も者か?」と聞くと「スイス人だ」と言う。それでドイツ語で話すように頼んだが、そのドイツ語が判らない。ほったらかして湖の向こうの岸を眺めていた。
「吾はヒロオオロダを知っている」今度は聞き取れはしたものの、何のことか判然としない
「それは何であるか?」
「日本の将軍である。フィリピンの何とかいう島から戦後29年ぶりに日本に帰ってきた将軍である」幾分かその男のドイツ語に慣れてきた。ルバング島から帰還を果たした小野田さんのことだった。ワインを飲んできたとのことで酒臭かった。
「ほら、あそこに綺麗な女の子がいる。汝を見ている。気があるようだ。話しかけて来い。汝なら若いから大丈夫。やれ!」
こんな話になると難なく聞き取れる。見れば映画に出てくるようなうら若い3人の娘さんが私の方を見ているが、そんな事に現を抜かすわけにはいかない。
「吾は結婚している」
「そんな事は関係ない。汝は21歳くらいだろう」
「否。吾は28歳である。日本男子は見ず知らずの女性に声をかけるようなことはしない」
「それにしても汝は随分お金持ちのようである。何といっても服装が良い」
保養にでも来ているのだろう。その人たちの服装もしっかりしている。どうやら地元の人間と思しき連中の服装は違って見える。この酔っ払いはシャツも上着も冬物だった。
船の旅は2時間ほどだった。船はボーデン湖畔を巡っていつしか川面を漂っていた。川を下ったのか遡ったのかの分別がつかぬままにシャッフハウゼンに到着した。教会などを眺めて汽車で帰ろうと駅に向かい、呆れが宙返りをするほど何度も駅員に聞き返して、漸くラードルフツェルに戻ってきた。船内での案内も殆ど聞き取れず、緊張するだけで面白くも何ともありゃしない。
明けて月曜日、語学学校に出掛けてみると、西洋人はもとよりアフリカあたりから来た者たちがうようよしている。どの顔も私の肩の上の方にあって、私は人ごみの中に埋もれる子供のような気がして落ち着かない。日本人らしい顔もちらほら見えるが、目を合わせると顔を背けてしまうことからするに、中国人か韓国人かもしれない。壁際の椅子に腰かけたら隣の外国人とは顔の高さが同じだったので話しかけた。ユーゴスラビアから来た青年だった。アントン・何とかだと名乗っている。苗字の方は覚えることが出来なかった。面接を控えてかなり緊張しているようだ。高等学校で哲学を教えているそうだが、ドイツ語は得意ではない。私と同じホテルに滞在していたとのことで私の面接が終わるまで待ってくれた。立って並べばアントンの顔は矢張り私の遥か頭上にあった。私達の下宿は同じ方向だった。駅前に停まっていたタクシーに乗ってそれぞれの下宿に向かった。昼になって改めて学校に行ってみると又アントンと顔を会わせたので、一緒に学校指定のレストランに行くことにした。ここにも先ほど見かけた外国人がうじゃうじゃといる。大方がたどたどしいドイツ語を話している。4,5人の男女が私達のテーブルにきて、顎に立派な鬚を蓄えた中年男性が「この席は空いているか?」と英語訛のドイツ語で聞いいてきた。流暢にドイツ語を遣っている。「飲み物は何にするか?」とボーイに尋ねられて「夜になったら黒ビールを飲むことにして、今は昼だから明るいビールにする」などと冗談まで飛ばしている。
「吾は中近東から来た。汝はどこの出身であるか?」顎鬚が私に聞いてきた。
「日本である」
「汝もこのシラー語学学校の生徒であるか?」
「然り。こちらはユーゴスラビアから来たアントン氏である。高等学校で哲学を教えいてる」
「汝の職業は何であるか?」
「言語学者であり、大学でドイツ語も教えている」
「吾は高等学校の英語の教員である。ドイツ語は不得意なのでドイツ語の学習にきたが、汝はドイツ語教員でありながらここでドイツ語を学習するのであるか?」髭男はにやりとしながら同道の者たちに目配せをしている。
食事は一層不味く思えた。私は仏頂面をしていたようだ。さっさと昼食を済ませて私たちは湖畔へと歩いて行った。アントンは私と髭男の遣り取りはほぼ分かったようだ。不機嫌な私の肩に黙って手を掛けた。夜はあのレストランには行く気がしなかった。私達は帰りがけにスーパーで夕飯用のパンと缶詰を買った。私と同じ下宿にはトルコ出身のすらりとした長髪の青年がいた。トルコの青年はイザレンだと名乗っている。昨年の11月に?―ドルフツェルに来て、今の学校でドイツ語を習い始めたという。なかなか流暢にドイツ語を操るのに感心していると、「吾の部屋に来ないか?一緒に一杯飲みがら話をしよう」と誘われた。酒が飲めるものと期待して、いそいそと出向いたら紅茶が供された。「飲む」という単語からはアルコールしか思い浮かばなかった。暫くしたら友達と会う約束があるということで出かけて行ったが、その時、音楽のカセットテープを貸してくれた。サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」が流れてきて、私はほろりとした。明日は午前中にクラス分けのテストがある。授業は午後からである。愈々久方ぶりの学生生活の始まりだ。
テストにあたってはある程度の区分がなされているようで、グループによって答案用紙の枚数が異なる。私には4枚の問題用紙が配られた。流石に日本語に訳せなぞという問題はないが、どれもこれも私が作ってきた文法問題に似ているので何の造作もない。テストの結果は昼過ぎには判明した。昨日レストランでボーイ相手に冗談を飛ばしていた髭男はあれこれ探した末に初級の第3番目のクラスで自分の名前を見つけたようで気落ちした表情を浮かべている。指定されたクラスに行ってみたところ、日本人は私の他に3名いた。一人は佐賀大学の梅林で驚いた。同じ下宿のイザレンもこのクラスだ。担当の先生はいかにもドイツ人らしい、でっぷりとしたヤコビ婦人である。授業が始まったらヤコビ先生はペラペラと何やら宣のだが、なかなか聞き取れない。一頻りお喋りが済んだところで私の名前が呼び上げられて、びっくりした。
「どこから、何のために来て、職業は何か?」
「吾は言語学者で、大学でドイツ語も教えているのだが、ドイツ語による会話はさして得意ではないので、きちんと習得するために来た」
「信じ難きことである。汝はすでにドイツ人の私と同じように喋るではないか」
「昨日はスイスまで行ってきたが、そのドイツ語は難しく理解した。矢張りドイツ語は難解である」
いきなり質問されたのだったが、ここ何日も同じようなことを言い続けてきたので、難なくすらすらと口を突いて出てくる。
「スイス人のドイツ語は方言であって、吾らドイツ人にも理解しがたいドイツ語である。正しきドイツ語を語る汝にあってはドイツ語研修など必要はない」
クラスメートを落ち着かせようという冗談にしては飛んでも無いことを言っているような気がしたが、「正しいドイツ語」とは「文法形式は間違いないドイツ語」という意味で、決して褒め言葉ではないことは後で判った。梅林はもとより他の日本人のドイツ語はきちんと理解できた。一人は京王大学の講師をしている橋本だった。二人の説明によると、ドイツ学術交流会の後援を受けた日本独文学会からの派遣研修生だとのことだ。私はその制度のことを初めて知った。いま一人は大手の製鉄会社に勤めるエンジニアの君津だが、会社からドイツ語研修に派遣されて、すでに3か月ほど前から別のところで勉強してきたようだ。この3人は予めこの中級クラスに指定されていて試験は受けていない。他の連中の多くは何の躊躇いもなく滅茶苦茶なドイツ語を平然と喋っていて、この連中のドイツ語は実に分かりづらいのだが、ヤコビ先生には通じているようだ。一人のアメリカ人女性は機関銃のような速さで捲し立てた。殆ど聞き取れなかったが、叔母がスイス人であるというところだけ分かった。この人物こそドイツ語を勉強する必要はなさそうだ。
何日経ってもヤコビ先生とクラスメートの遣り取りを聴いているのが精一杯である。私はもっぱら聞き役に回って、なるべくノートを取るふりをしながらヤコビ先生とは目を合わせぬようにしていたのだが、ヤコビ先生は事あるごとに私に質問を投げかけて寄越す。
「ヘル(=ミスター)・タダ!汝は朝、学校に来て汝の食事がなかったら何とする?」
朝食は8時から9時の間に学校で供される。献立は芥子の身が振りかけられたライ麦入りの丸いパンと幾種類かのハムと野菜サラダである。飲み物はコーヒーか紅茶、それにジュースと牛乳である。
「黙っている」
ヤコビ先生はぎょっとした表情を浮かべた。
「何故に汝は黙っているのか?」
「何となれば、昼になったらレストランで食事が出来る」
「3日も4日もそうした状態が続けば何とする?」
「そんなことは考え難い。ここで吾らの世話をしているフラオ(女性)は実に親切この上ない人である」
「しかし、あのフラオだって忘れることはあろう」
私は言葉を選びながらボツボツと話を続けた。
「日本男子、食事を一食与えられないことなぞに構うことはない。これがブシの心である」
「ブシとは何であるか?」
「中世ドイツの騎士に該当する。サムライである」
「日本女性、フラオ・ウメバヤシ!汝は何とする?」
「強く抗議する」
「それでよろしい」
梅林はにやりとした。ここは黙っている訳にはいかない。いつか使ってやろうと英語版で読んだ新渡戸稲造の武士道の一節を口に出した。
「フラオ・ヤコビ!一言申し上げたい。四方の風に吹かれて散り果てようとも、その香気は人生を豊かにするのである」さらに一言付け加えた。「これがブシの魂である」
ヤコビ先生ばかりかクラスメートの誰もが呆れ顔をしている。
こんな訳の分からぬ大口を叩いてはみたものの、日にちが経つにつれて日本食が恋しくなる。クラスメートの君津は車を持っていて、今度の週末には一晩泊まりでスイスとの国境の町、コンスタンツを抜けてチューリッヒまで行こうということになった。梅林も同道した。コンスタンツでは中華料理を食べた。日本で食べる中華料理とは雲泥の差があるのだが、それでもお粗末なドイツ料理よりは遥かにましである。この時に君津から生ビールの注文の仕方を教わった。これまで私はレストランでは必ず「ビール一本」と注文していたので瓶ビールしか飲めなかったのだ。ドイツでは生ビールは『樽出しのビール』と断らなくてはならない。私は生ビールを注文した。何やら聴かれたのでおろおろしていたら、すかさず隣から君津が「大」と言ってくれた。それでやっと大ジョッキのビールにありつけた。旨い。冷え方も程よい。
スイスの玄関口であるチューリッヒはラードルフツェルとは違って中世の面影を残す建物が並んでいる。夏だというのに白鳥が湖面をゆったりと行き来している。ボーデン湖にも白鳥がいた。渡り鳥ではないようだ。チューリヒの町をぶらついていたら日本食のレストランがあったので入ることにした。昼の中華料理に続いて夕飯は日本食と相成り、私の心は弾んだ。どれもこれも日本の2倍の値段であるのには驚いたが、今はお金に頓着している時ではない。私は玉子丼を頼んだ。スイス人のボーイが運んできたそれはお世辞にも旨いとはいえず、これならスイス料理の店に入るべきだったと憤懣やる方ない。ドイツにきて既に20日あまり過ぎたのだが、尚の事、日本が恋しく思えてならなかった。
週が明けて学校に行ったら、近いうちにスイスのザンクト・ガレンに遠足に行くという。授業は休講となるので私もそのバスハイクに便乗することにした。どこをどう走っているのか皆目分からない。バスハイクに出掛ける前にヤコビ先生は私たちが赴く町についてあれこれ歴史やら何やらくどくどと説明してくれたのだが、殆ど理解できなかった。教会やら中世ドイツ語の写本が収まっている図書館などを巡ってきたが、どこを見ても面白くない。8時頃になって漸く戻ってきてホットした。翌日の授業では早速そのバスハイクの感想を求められた。
「ドイツは良い所である。世界に誇ることのできる歴史と文化に溢れた国である。スイスも同じだと思うが、ヘル・タダは如何に思うか」
「吾も亦フラオ・ヤコビのご意見に賛成である」
「おお、ヘル・タダ!汝は何故にそうした答え方をするのであるか?汝は何故に自分の意見をきちんと述べないのか?」
ここで私の堪忍袋の緒が切れた。
「成る程ドイツは良い所である。世界の中でも美しい町だろう。されど世界の中で最も美しい国だとはとても思えない。とりわけここラードルフツェルは実に退屈な町である。吾一人に限らず、どの外国人も、ここラードルフツェルには歴史も無ければ、人間としての温かみさえ感じることができない、と云っている。吾も同意見である。例えばかの医者にして作家であるハンス・カロッサの生地パッサオは実に美しく、人情味に溢れた町だと聞いている。こんな町に来てしまった事を吾は後悔している。吾は一刻も早く日本に帰りたい」
ヤコビ先生は私のこうした意見を聴くと実に悲しそうな顔をする。だが、ひとたびイザレンがこうしたドイツへの苦情などを言えば、「汝らトルコ人はドイツにきて極悪非道な事ばかりしているではないか。ドイツは汝らトルコ人によって文化も歴史も崩されれてしまっている」などと罵声を浴びせる。甚だしい人種差別を目のあたりにさせられて、こちらが戸惑ってしまう。
ドイツ滞在も1か月となったところで京王大学の橋本がこの学校は面白くないのでベルリンに移るということで、日本人の間で送別会を開くことになった。我ら中級のクラスの4名と北海道大学医学部に勤務するドクター村山。村山はフンボルト財団から奨学金をもらって既に4月からここラードルフツェルでドイツ語を学んでいる。今もってドイツ語は苦手なようだ。今一人は日本開発銀行からドイツ語研修に派遣された中野である。中野も4月からここでドイツ語を学んでいる。送別会は中野の下宿で執り行われることになったが、その当日になって橋本は用事ができて来られなくなってしまって、送別会の体を成さなくなったが、そんな事はどうでもよい。中野の下宿には電熱器がある。まずは肉の缶詰を開けて、肉を取り出し、その肉汁の中に玉ねぎ、ピーマンを入れて缶を電熱器に掛け、少し煮えたところで改めて肉を戻して一緒に煮るのである。何とも原始的ではあるが、試行錯誤の末に得られた中野の研究の成果である。これが不思議と旨い。誰もが「レストランの食事よりはずっと良い」と中野を褒め称えている。中野は日本から貝の缶詰も持参してきた。白ワインと相性が良い。中野がスーパーで見つけてきたという米を炊いた。レストランの米は細長くて粘り気が全くない。これはご飯というよりも正しくライスだった。中野は研究に明け暮れ、ついに日本の米のような粒の小さな米がご飯に近い出来になること極めたのである。袋を見せて貰うとミルヒライスとある。どうやら牛乳で炊く類の米のようだった。兎も角それを鍋で炊いてもらった。細長い米と違って粘り気がある。さらには持参のインスタント味噌汁もご馳走してくれた。村山は感激のあまり泣き出さんばかりで、「旨い、嬉しい、ホッとした」を連発している。再度、ご飯を炊いた。火加減の調節を間違えて焦げてしまったが、村山はそれこそ日本的食文化の象徴だと、湯を掛けお茶漬けの素を振りかけて啜り込んでいる。梅林は海苔を持ってきたとのことで、握り飯を造ってそれぞれ土産にもらって帰った。
週が明けて別の初級クラスの日本の声楽家女史の雌鳥からミュンヘンに行こうと誘われたので、授業をさぼって大野と同じ京大の学生と雌鳥の3人でミュンヘンに行くことにした。その当日になって京大生が出かけられなくなって、雌鳥と二人連れの旅となった。ラードルフツェルを離れるにつれて車窓の景色は長閑な眺めに変わってゆく。ミュンヘンに着いて早速ビールを飲んでみた。勿論、生ビールである。流石にミュンヘンのビールは世界に名だたるだけのことはある。ほろ酔い気分で地図を片手に古代絵画美術館を訪れた。旧約聖書に基づいた絵ばかりで、どれもこれも残酷極まりないという感がした。駅に戻る途中で泊まることにしていたホテルに電話を掛けたら満室だと断られた。駅の案内所で宿を探していると妙なおばさんが寄ってきてペラペラと英語で語りかけた。
「英語ではなくドイツ語で話してくれ」
「吾がホテルには日本人もよく泊まっていく」と言って、日本語の置手紙を見せた。ホテルの客引きのようだ。「日本人は歓迎するからぜひ泊まることを勧める」
「値段はいくらであるか?」
「55マルクである」日本円で6千円を少し上回る。
「それはあまりに高い。吾らはもっと安いホテルを探している」
「今時、これ以上安いホテルは存在しない」
「吾の友人は25マルクのホテルに滞在した」
「それは冬の時期の値段である。この夏の時期は吾がホテルの値段は適正価格である」
私は自分で探すからあっちに行ってくれと言って追っ払い、日本語の案内書の中から25マルクのホテルを探し出して電話を掛けた。二部屋空いているとのことだった。場所は駅のすぐ前だというので、すぐに見つかるだろうと探してみたが、これが分からない。通りすがりの人に聞けば成る程駅前ではあったが、反対側だった。駅構内をくぐってやっと辿り着き、フロントで1人用の部屋を二つ頼んだら「2人用ではいけないか?」と聞くので、「あくまでも1人用の部屋2つでなくてはならない」と答えたら変な顔をされた。係りの者はどの部屋も私の名前を書き込んでいる。夫婦なのに何故別々に部屋を取るのかと勘繰ったようだ。荷物を置いて夕食に出掛けた。目指すはかの著名な男優の娘が経営する日本料理屋である。歩いて行くには遠いようなので、市電を利用することにした。ホテルの係りの者から9番系統の市電で行けばよいと教わった。市電の発着場には1から始まって19まではあるが、どこにも9番系統の乗り場はない。何度も歩き回り、可愛い娘さんに地図を見せて聞いてみるも要領を得ない。ならば年配の女性にしよう。このおばちゃんも判らぬときた。するとこのおばちゃんは歩き行く人たちを呼びとめては聞いてくれた。見る間に数人のドイツ人が私達を囲み、ああでもない、こうでもないと言い出す始末で決着がつかない。業を煮やしたおばちゃんはたまさか通りかかった市電の運転手に尋ねてくれた。9番系統は廃止になっていて、19番系統で行かなくてはならないことが判明して、「さあ、電車がきた。乗れ」とせっつかれたが、まだ切符を買っていない。運転手が自動販売機で買ってくれることになったが、こいつがチトいかれていた。そしたら又人だかりとなって、お金を替えてくれたり、機械をひっぱたいたりしてくれてやっと切符が出てきた。電車には車掌はいないので、乗り込むと同時に自動検札機でその切符に検札の印を入れなくてはならない。だが、目的地の停留所までは何枚に検札の印を入れるのかが判らない。ここでも親切に老婦人がその手順を教えてくれた。市電では次の停留所名がアナウンスされる。さあ、これで日本食にありつけると思ったのも束の間、運転手のアナウンスがさっぱり聞き取れない。停留所の看板を見ては地図を眺める。もう近いようだが、目指す停留所の看板は見当たらない。改めて地図を見れば既にレストランが在る筈の停留所はとっくに過ぎていたので慌てて降りようとしたが、ドアが開かない。降りるにあたっては降車用ボタンを押さなくてはならないシステムだった。沈みゆく太陽に行く先を探ってみると、どうやら二停留所程過ぎてしまっていたようだった。二人して暮れなずむ道を逆戻りして、タクシーの運転手に聞いてやっと目指すレストランに辿り着いて時計を見ると9時半となっていた。天ぷらそばを注文した。1400円ほどしたが、実に旨い。蟹の酢の物を肴に日本酒を呑んで人心地ついた。翌日は近代美術館を訪れた。ダリ、ゴーギャンらの私もその名前を知っている画家の絵がさりげなく展示されている。私は様々の絵をもっともらしい顔つきで見て歩いたのだが、暫くして雌鳥から「ゴッホがありましたね」と声を掛けられた。見過ごしていたようだったが、「どこに?」と聞くわけにもいかず、黙って頷いた。翌日は街中を歩き回った。ここミュンヘンはラードルフツェルとは違って大都会であり、道行く人たちも私たち日本人には目もくれない。街並みも垢抜けしていて、それでいて歴史の重みと近代的な感覚が見事に調和されている。来るときの列車はミュンヘンが終着駅だったが、帰途の列車は十数両の編成で、ラードルフツェルに行くのは二両だけである。それぞれ途中で切り離されては別の車両がくっ付けれられる。途中で喉が渇いたのでビールでも買おうかと車掌に聞くと、今は一番前の車両に車内販売の者がいる筈だと教えてくれた。勇んで前まで行って缶ビールを調達して雌鳥の居るコンパートメントへ戻って来たが、雌鳥の姿はない。列車の背後に去りゆく景色が見える。先端の車両に買い物に行っている間に切り離されたようだ。私は青くなった。慌てて前に引き返したところでコンパートメントから顔を出した雌鳥に声を掛けられた。早く戻らねばという焦りからひたすら前を見て歩いていて、雌鳥のコンパートメントを通り過ごしていたのだった。
下宿に帰り着くとイザレンが宿題に取り組んでいて私の顔を見るなり、よく判らないから手伝ってくれとせがんできた。私が授業をさぼってミュンヘンに出掛けたことはヤコビ先生にも知れているようだ。宿題からは解き放たれたが、根掘り葉掘りミュンヘンの印象やら何やら聞かれることは間違いない。美術館や博物館の話は適当に喋ることにして、ミュンヘンという大都会での洗練された人々の身のこなし、ラードルフツェルと違って東洋人に対する偏見なぞどこにも漂っていない都会のセンスを皮肉たっぷりに喋ってやろうかと思う。
何日かして雌鳥の音楽会が近くのレストランで開かれることになった。雌鳥は昼休みになれば、学校のピアノを叩きながら、窓がびりびりと震えるほど朗々と歌っている。ある時、その雌鳥がクラスの先生に呼び出されて、何か文句を言われたようだが、よく判らなかったので来てくれと言う。雌鳥の歌声がかなり遠くまで響き渡り、警察に苦情が寄せられたとのことだった。こよなく音楽を愛する国民だと思っていたので不思議な気持ちにかられ理由を尋ねると、「昼休みの時間帯は誰もが静かにしていなくてはならない」とのことで妙に納得した。私は「フラオ・メンドリは日本を代表する声楽家であり、日本の大手の新聞社からの後援を受けて、来る秋にオランダで国際コンクールに出場するのである」と告げた。これがきっかけとなって、学校指定のレストランで雌鳥のリサイタルが開かれることとなったのである。誰もが正装をしているのには驚いた。それにしてもドイツ人やら沢山の外国人を前にして堂々とドイツリートを披露する雌鳥を見て私はいくらか誇らしい気持ちになれた。
愈々8月となってあと4週でラードルフツェルに暇を告げることができる。ここでの生活は退屈極まりない。この週末には日本人仲間でスイス側のボーデン湖を南に走り、リーヒテンシュタイン王国へと突っ走た上で、アイガーの北壁を見に行こうということになった。中野も中古の車を買ったので、君津の車と2台で行くことが決まった。朝早く一路スイスに向かう。リーヒテンシュタイン王国には3時間余りで着いた。ここで昼飯を食べて一路イタリアの国境近くのサンモリッツへとひた走り、途中の谷間で一休み。河原まで薪を運んで、火を熾して夕食の準備である。ご飯を炊く段になって梅林と雌鳥が何彼となく注文をつけるが、私たち男性陣は無頓着で、途中で幾度も鍋の蓋を開けてはごちゃごちゃとかき混ぜてみたり、水を足したりしたのだが、これでも不思議にきちんとご飯が炊けた。味はお世辞にもよろしいとはいえないものの、レストランで食べるぱさぱさのライスよりは遥かにましである。なんといってもこちらのライスはフォークの間からぱらぱらと落ちてしまう代物だが、我らの傑作は箸で掴んだらきちんと固まりとなって口に納まる出来具合だった。ソーセージを焼き、あれやこれやの缶詰で食卓が賑わっている。これをご飯と云わずして何と言う。河で冷やしたワインは極上の味だった。デザートに舌鼓をうっていた所に牛の大群が現れた。果たして牛の帰り道で私たちは夕餉を楽しんでいたのだ。皆てんでんばらばらに逃げていったが、私と君津は牛の乳を撫でたりしながら残りのデザートを楽しみ、後片付けに勤しんだ。サンモリッツでは君津が得意のドイツ語を駆使してホテルを探したが、どこも満杯で数軒回って漸くホテルが決まった。ユングフラウを横に見ながら私たちはさらに北上してインターラーケンへと向かい、そこでまた一夜を過ごした。アイガーの麓では誰もが壁に挑むクライマーを備え付けの大きな望遠鏡で眺めている。
日曜日の夕暮時とはいってもまだお天道様は頭上にある6時頃に忌まわしいラードルフツェルへご帰還となる。いつものレストランでビールを飲みながら夕食をとった。継いでワインとなる。ここで解散となったが、男性陣のうち数名が残り、ディスコに行こうとなった。ここで久方ぶりにウイスキーを舐めた。時刻はもう既に丑三つ時を過ぎていて、残るは私と村山の二人。「もっと呑もう、徹底的に呑もう!」と盛り上がって町の中の飲み屋を探し回ったが、どこもすでに閉まっている。村山が二人のドイツ人男性に声を掛けて、飲み屋の在り処を訊いている。私達は酔った勢いでこの見ず知らずのドイツ人を誘ったのだが、「妻が待っているし、明日は仕事があるから帰らねばならぬ」と言っている。「日本では亭主は女房のことなど構わず、呑むときは徹底的に呑むのである」と絡んでみたが通じなかったようだ。それでもタクシーの運転手にどこかの飲み屋に連れて行ってくれるように交渉してくれた。隣町だかもっと隣の町なのかは判然とはせぬものの、兎も角飲み屋へと運んでもらい、そこで店が閉まるまでワインを飲み続けた。下宿に帰り着いたのは明け方だった。とても授業に出られる状態ではなく、昼過ぎまでベットでのたうちまわって、夕方になって腹が減ってきたので、いつものレストンで食事をしてきた。仲間によれば村山も授業をさぼったようである。ミュンヘンでの二夜とこのスイスへの旅行で少しずつドイツやスイスが私の心を大きく占めてきている。下宿に帰るとベットに「朝は9時までに部屋を去らなくてはならない」とのメモがあった。あと三週間ほどの滞在となるここラードルフツェルでの生活は忌々しいの一言に尽きる。
ある日アントンから夕食の誘いを受けた。「ワインを買ったので一緒に飲もう」と言う。アントンは節約にこれ徹しているようにて夜は殆どレストランで食事をしたことはなく、いつも下宿でパンをかじり、ソーセージにかぶりついているらしい。アントンはまだまだドイツ語はうまくはなってはいないが、質素な生活ぶりだけではなく、実に真面目な人柄である。ヤコビ先生によれば「真面目」の定義は「夜は11時までに帰り、酒も煙草もやらない人物」であり、「従って明け方まで余所の町まで行ってお酒を飲み続けるヘル・タダは当てはまらぬ」と言われたばかりである。私は先日のこと、村山と映画を観に出掛けた。10時までは一般の映画だということで、時間帯を見計らって映画館に入った。この日は夕方から眠気がさしていて、目をこすり、膝を抓ったりしながら睡魔と闘って楽しみにしていたというのに、期待に反して映画は何ということはない。日活ポルノとさしたる変わりはなかった。やれやれ損をしたという気持ちで席を立とうとしたところで、スクリーンに字幕がでてきた。「これからポルノ映画を上映する。見たくない人は今の休憩時間の間に当劇場を立去るべし」とあった。胸が高鳴ると同時に目もぱっちりとした。これを20分しっかりと見たのだから勤勉とは言えないのかも知れない。それにしても観客の顔ぶれをみて驚いた。若い男女はもとより、中年から壮年と思しきカップルもいたのである。こうした人たちはどの部類にはいるのだろうか。アントンは毎日哲学書を読みふけり、宿題をこなしていると言う。大分前に博多人形を差し上げたら、お返しだといってユーゴスラビアの人形をくれた。奥さんに申し付けて送らせたようだった。申し訳ない気持ちで一杯になった。アントンの宿題をみると初級クラスながらもテーマが10題あって、それに基づいて作文をするようになっている。私のクラスの宿題よりもずっと面白いし、即座に役立ちそうである。それに引き替えヤコビ先生の設問はあまりにもお粗末だ。ヤコビ先生の教授法が悪いのか、私が怠けているのか、私のドイツ語は一向に上達していないような気がする。授業は虎の巻に頼っていて、どの説明も的を得ない。受講者の反応を見ようとしないのか、出来ないのか、勝手に進んでゆくばかりである。文法となればこちらが専門家であるので時にあらゆる文法理論を駆使して片言ながら反論をするのだが、どうにも噛みあわない。
「汝は汝の文法理論を捨てるべきである。これは文法理論に関わる事柄ではなく、もっと単純な質問なのである」
「されど、この設問の通り答えを出すならば、問題と答えについては『動作態様』、一般的用語で言えば、意味合いが微妙に異なってしまうのである」
「然り!」
「ならば答えは如何に?」
返答はない。しばしの沈黙に続いて流石にヤコビ先生、納まらぬ様子にて何やら早口で述べ立てたが、理解できない。判らぬと言うのも癪だ。
「吾はこのことについては既に多くの著作を読み、このテーマに関する論文を二つ書いた」
「汝が言語学者としてこの点に言及しようとするのは適切ではない」
「そんなことは充分に理解している。そもそも汝が吾に説明しようとしているのは言語学ではない。このような次元の低いところで吾は汝と議論する必要を見いだせない」
私が教師の立場だったら怒り心頭に達したことだろう。あまりにも身勝手で都合のよい御託を並べては、いつまでも上達しないドイツ語を誤魔化そうとする自分が惨めにも思えてきた。休み時間になってヤコビ先生に請われた。
「ヘル・タダ!明日の一時間目の授業は汝の文法理論を紹介してもらえないか?」
「吾としては問題はないが、果たしてクラスのメンバーはそんな私の理論を聴いて楽しいのであろうか?」
「汝と吾との議論を聴いているクラスのメンバーは汝の文法理論について不確かな理解である。皆には難しいだろうが、日本人ゲルマにストの講義を聴くことも経験の一つになる」
私は引き受けた。できるだけ受講生に判るように平明に論んずる必要がある。私は幾つかの例を紹介しながら1時間の講義を受け持った。質問の時間となっても誰も反応を見せない。文学を専門とする梅林にも理解しがたかったようだ。仕方なくヤコビ先生が私とは違う見解を述べたが、私が反論するとあっさりと受け入れた。「これ以上追及すると、あの餓鬼うるさい」と考えたのかもしれない。
その翌日、授業が始まるや事務員が教室に入ってきた。
「フラオ・ヤコビは病の為にお休みである。よって、暫くしたら別の教師が来る」
鬼の攪乱かと思ったが、続いて入って来た代理の教員によれば昨日、自転車で帰宅途中に車とぶつかってしまったとのことだった。幸い怪我は軽く、一週間ほどで退院の見込みとのことだ。ヤコビ先生には気の毒だが、この代理の先生の教授法は型に嵌っていない。受講生のモチベーションを引き出し、一緒に語らいを楽しむというやり方である。初めからこの先生だったらさぞかしドイツ語が上手くなっただろうというのは私だけの心象ではなかった。普段は殆ど口を開くことのないトルコのユンデンも生き生きと質問したり自ら発言をしている。
それでも私達日本人は「敵に塩を送ろう」という気持ちになって見舞いに行くことにした。さらにイザレンと落ちこぼれのユンデンも加わり、5人して見舞いに出掛けた。
「誰が何を云うかを予め決めて練習することにしたいが、汝らは如何に考えるか?」ユンデンが切り出した。
「良い考えである。そうしよう」私たちは同意した。
「初めに口を開くのはヘル・タダでなくてはならない。なぜならば、ヘル・タダはクラスの中で最もフラオ・ヤコビに愛されているのであるから」
「それにしても日頃から授業の方法に文句ばかり言っている吾ら出来の悪い生徒が揃って見舞いに訪れたりして、フラオ・ヤコビは心臓ショックで倒れてしまうのではないかと恐れるが、汝らは如何に?」私が聞いてみた。
「いや、事故の怪我は随分軽いものであったそうである。せめてこのコースが終わるまで入院していてもらいたいと考える」とイザレン。
「ベットに横になって十分に静養していてください、と吾は云うつもりだが、言語学者、ヘル・タダ!これで正しいか?」ユンデンは考えていたドイツ語を私に確かめた。ユンデンとイザレンが見舞い用に鉢植えの花を用意してきた。根が生えるということで見舞いには持っていくことのない日本人の感覚とは随分違う。こうした文化の違いを二人に説明しようかとも考えたが、簡単にドイツ語にはならぬようにて諦めた。私は博多人形を持参した。
「ヘル・タダ!有難う。それにしてもこの人形は日本人をモデルにしているのであろう。これが着物で、結んであるのは帯であることは理解できるし、この手にしているのは日本茶を飲むカップであろう。されど吾は一つ不思議に思う。目は黒いのに何故に髪はブロンドであるかの?」
答えに窮した私は間を置いてからこう返答した。
「日本人は西洋人の美しさにある種の憧れを抱いている。それは吾ら東洋人に共通した西洋人へのコンプレックスでもある。人形師はそうした心根をこの人形に吾知れず託したものと考えられる」
とんでもない理屈だが、それを言うだけで精一杯だった。
代理の若い男性教員の授業は一週間程続いた。ユンデンも生き生きとしている。教わったばかりの仮定法を使って「初めからこの先生が吾らの授業を担当していてくれたなら、吾のドイツ語は遥かに上達していたであろう」などと口走っている。「ヘル・イザレンは突然に真面目人間となり、授業中も居眠りをしていない」とオランダから来たキホーテが憎まれ口を叩いている。「あまりにも多くの物を失いすぎた」と述懐する者もいた。こうなると私の教師根性がむらむらと頭を擡(もたげ)てくる。
「必ずしもそうとは断定できない。予期していた程のドイツ語力は得ることが出来なかったという印象を抱く者もあろう。だが、広い視野に立てば得た物も多い筈である。吾も妻に多大の犠牲を払い、その代償として得た物がどれほどの価値を持っているかは今は正確には判らぬが、これをステップにして吾らは自らの人生観を築きあげなくてはならないのである。吾を含め汝らの多くはあと一週間程したら帰国の途に就くのである。2か月足らずの月日を過ごしたラードルフツェルに暇を告げる日が間もなく来る。吾らのフラオ・ヤコビにもサヨナラを云わねばならないのである。汝らの新しい人生に幸あれ」
みんな呆気にとられて私の演説を聞いていた。
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